雑記・読書感想を書く、ということについて

昔、読書ノートを書いていたことがある。
1988年ごろから始めていたはずだ。はず、というのは、最初に感想を書いた作品を明確に覚えているからだ。コーネル・ウールリッチの絶筆にローレンス・ブロックが続きを書いて完成させた『夜の闇の中へ』だった。早川書房の「ミステリアス・プレス」レーベルの第一弾だったはずだ。もちろんハードカバーの方だ。綾辻さんの作品だと『水車館の殺人』か『迷路館の殺人』から感想を書いていたと思う。偉そうに「文章」「プロット」などの項目でポイントを付け、5項目10点満点で50点満点だった。50点満点を自分で出したのを覚えているのは、綾辻行人さんの『時計館の殺人』と、宮部みゆきさんの『龍は眠る』だ。後に推理作家協会賞を同時受賞する2作品だ。
誰かに読まれることなどあり得ないのに、読まれることを想定した読書ノートだった。それは端的に言えば「文章訓練」のつもりだった。このノートを読んだ人が、その小説を読みたくなるような文章、を心掛けていた。


小説を読んだらすぐに書くことを習慣にしていた読書ノートは、結局5〜6冊は続いていたと思う。止めたタイミングも明確に覚えていて、1999年8月にホームページ「政宗九の視点」を開設してからだ。感想はホームページにアップするようになった。ここからは明確に「読まれることを意識して」書いていた。
当時は読書ノートの記録もネットに上げるつもりだったが、結局出来なかった。
なので、読書感想は常に「感想を読んだ人が本を読みたくなるような感想」を意識してきたつもりだ。


しかし時折、詰まらなかった小説に出会うことがある。そんな時は、無難な表現に留めながら、その中でも「ここは面白かった」というポイントを紹介するようにしてきた。なので、我ながら、面白かった小説と詰まらなかった小説では、感想のテンションが全然違うことを自覚している。たぶん、バレバレだろうと思う。
あと、特に自分から読みたくて読んだ小説ではない時に、そういう感想になりがちだ。積極的に読みたいわけではないゲラを読んだ時などだ。


なにを書きたいかよく分からなくなってしまった。皆さんは読書感想をどういうスタンスで書いているのだろう、とふと思ったのだった。もっともらしいことを書いてるけど全然伝わってこない感想を読むと、この人は結局面白く読んだのだろうか、それとも、プルーフ貰ったから読んでるだけのビジネス読書なのだろうか、とか考えてしまう自分がいるのであった。
なお、その読書ノートは、何度かの引越しのドサクサで処分してしまった。勿体無いことをしたと、今も思う。