古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』

ベルカ、吠えないのか?

ベルカ、吠えないのか?

20世紀は戦争の世紀だった。1942年、第二次世界大戦において日本軍はアリューシャン列島に侵攻、アッツ島キスカ島を占領した。だが翌年、アッツ島の守備隊が全滅、キスカ島に残された日本軍は全員撤退した。しかし撤退したのは「人間」だけだった。日本軍に所属していたもうひとつの生物、軍用犬がそこに残された。北、正勇、勝、エクスプロージョンの4頭だった。そのうち北、正勇、エクスプロージョンは米軍に拾われた。勝だけはその時、日本軍に仕込まれていた任務を果たした。米兵を咬んだまま地雷を踏んだ。このバンザイ突撃(アタック)によって勝は玉砕した。やがて雌のエクスプロージョンは正勇の子供を産んだ。そうして、人間たちと戦争に翻弄される、イヌたちの年代記が始まった――イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?
本当に凄い小説に出会った時には、読みながら「俺は今すげえ小説を読んでいる!」と感じることがあるものだ。まだ途中なのに、それが傑作だと確信できることは実は稀だ。最近だと伊坂の『砂漠』がそうだった。そして今回も、途中で震えてしまった。鳥肌が立ちそうになった。これは凄い小説である。上の粗筋に書いた「イヌを中心にした20世紀の年代記」と、ロシアマフィアとヤクザの抗争に巻き込まれてマフィアに人質として囚われた日本人少女がイヌの末裔に出会う話がカットバックで描かれている。この少女パートが最初のうち少しイメージし難かったのだが、読み進むにつれて乗ってきた。そしてその欠点を補って余りあるイヌの年代記パートの素晴らしさ。1957年の章は、この感動を一体どう表現すればみんなに伝わるのだろう、と逆に考え込んでしまったほどだ(1957年はこの小説では「イヌ紀元元年」とされる)。イヌの系譜図がないので分かり難い、という指摘を時折見受けるが、この小説に系譜図は必要だろうか? これはイヌたちの「聖書」として私は読んだ。聖書も系譜図は書かれていないし、聖書を読むにあたって系譜は不要なのだ。誰が誰の子孫かは、あまり重要ではない。連なっていることが解っていればそれでいいのだ*1
古川日出男の小説はどれを取ってもワンアンドオンリーである。ある小説が面白かった場合、他の作家ならば「次はこの作家に近い雰囲気のあの作家の小説を読んでみるか」と思うことがある。だが、古川日出男にはそんな「似たような小説を書く作家」が全く思い浮かばない。「古川日出男のような小説」は古川日出男でしか読めないのだ。私は今、古川日出男に嵌りつつあることをここで告白しておこう。

*1:もちろん研究のためには系譜は必要だろうし、大抵の解説本には載っているものだ。全くの余談だが、私は高校時代に「創世記」の系譜全てを一枚の紙に書いたことがあった。それはそれは膨大な大きさになったものだ。