最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人

「星製薬」の創業者であり「星薬科大学」の創立者である星一の御曹司・星親一(本名)は、父の急死に伴って24歳にして星製薬の二代目社長になった。ところが星一は「昭和の借金王」と揶揄されたほど事業の失敗によって借金を抱えており、とてもすぐに建て直せる状態ではない。親一は会社の運営を他人に譲って一線を退いた。代わりに興味を抱いたのがSF小説で、レイ・ブラッドベリ火星年代記』に感動してから、やがて自分でも書くようになった。同人誌「宇宙塵」に書いた作品は矢野徹を驚愕させ、江戸川乱歩に「ついに天才がひとり出ました」と紹介、乱歩編集の雑誌「宝石」に掲載され、絶賛された。会社をつぶした男に、勤め口などあるわけがない。星親一にとっては、もう書くことしか術がなかった。SF作家・星新一の誕生である。
推理小説の一ジャンルとして細々と存在していた日本SFを開拓・発展させた中心人物、星新一の評伝。膨大な取材量を基にした内容は、興味深いエピソードが満載だ。日本SF黎明期に、星の周辺に現在の大物作家・関係者が集結しており、新しいものを興そうとするパワーに溢れていた時代が鮮明に描かれている。
特に印象的な部分をいくつか紹介しよう。

(第44回の直木賞候補になったが、選考の)結果は、黒岩重吾「背徳のメス」と寺内大吉「はぐれ念仏」の受賞。選考委員のうち選評で新一の作品に言及したのは源氏鶏太ひとりだけだった。しかも、「星新一氏の『ショート・ショート』は、実に面白い。しかし、文学的な面白さとは思われなかった」というあまりありがたくない評だった。高松の予想通り、「人間が書けていない」というコメントがあったとも伝え聞いた。期待していなかったとはいえ、落胆は隠せない。
「じゃあ、源氏さんの小説が人間書けてるっていうのかなあ」
 新一は、香代子にそう不満を漏らさずにはいられなかった。
(279〜280ページ)

いつの時代も同じような話が繰り広げられているのだなあ。

筒井(康隆)が、第五十八回、五十九回と二期連続で直木賞候補となり、仕事に遊びにと多忙を極め、神戸に帰ることを考え始めていたころだろう。筒井の作品に新一の影響を与えたことはたしかで、「狂気の沙汰も金次第」という新一の言葉をタイトルにしてエッセイを書き、それより少し後のことになるが、小松の『日本沈没』のヒットを祝う会場で新一が発した「日本以外全部沈没」という言葉をタイトルにして作品化するなど、新一に影響を受けた筒井が発想をふくらませた作品は数多く、本人もまたそれを公然と認めている。
(375〜376ページ)

日本以外全部沈没」の原案者は、なんと、星新一であった!

同じころ、講談社では、昭和四十四年に入社した宇山秀雄が、創刊準備中の文庫出版部に配属された。新一の本はすべて読破し、熱烈な星ファンを自任する宇山は、岩波書店の文庫編集部から講談社へ移り、SFやミステリにはまったく関心のない梶包喜(かねよし)部長を説得し、戸越の星邸まで部長を連れて訪ねた。宇山の入社後初めての名刺が、そのとき新一に渡された。それまで誰に会っても、まだ名刺ができていませんと嘘をついて渡さなかったのは、どうしても最初の一枚を新一に渡したかったからだ。
(389ページ)

中井英夫『虚無への供物』を文庫化するために入社した、という伝説を持ち、新本格ミステリの生みの親でもあり、晩年は「ミステリーランド」を立ち上げた宇山秀雄氏のエピソード。星新一を選者にした「ショートショート・コンテスト」や、雑誌「ショートショート・ランド」も宇山氏が手がけたものだそうだ。

ショートショート一〇〇一編達成に対しては、結果的に、なんら文学的な評価を得られなかった。記録としては残ったが、それだけだった。もはや賞を与えることのほうが失礼にあたると考えたのか。生前の新一に対しては、日本SF作家クラブさえも賞を授与しなかった。昭和五十九年に北海道で開催された日本SF大会「エゾコン2」で名誉星雲賞を授与するという案が伊藤典夫から持ちかけられたが、「なかったことにしてくれ」と新一側から辞退している。これまで自分を軽視し続けたSFの若い世代に対する静かな抗議だったのだろうか。
(508ページ)

ちなみに1001編目の作品は、正確にはどれか分からないことになっている。ほぼ同時期に9種類の雑誌に「1001編目」として同時掲載されたからだ。


私は星新一の熱心な読者ではなかった。むしろ、ほとんど読まなかった。が、この評伝で俄然興味が沸いた。星新一のSFも、たまには読んでみようと思う。