中川右介『松田聖子と中森明菜』

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

松田聖子中森明菜。1980年代を席巻し、トップアイドルの座を巡って激しく争った二人の天才と、その前日譚としての山口百恵にもスポットを当てた近代芸能史。著者は二人に直接取材したわけでも、周辺の人物から話を訊いたわけでもなく、二人について書かれた膨大な資料(当人が著者とされているタレント本も含む)から当時を再構成している。まるでずっとそばで見届けていたかのようだ。これは著者の才能というほかはない。
印象的な文章に付箋を付けていたら、またしてもびっしりになってしまった。長文引用を許されたい。

阿久悠山口百恵に冷たい。彼は七十年代に〈スター誕生〉からデビューした歌手のほとんどに詞を書いているが、山口百恵には一曲も書かなかった。あるいは、依頼が来なかった。それは、彼が審査員として「(主役の)妹役ならいいけど、歌はあきらめたほうがいいかもしれない」と言ったことを、山口百恵が根に持っていたからだとの説がある。阿久は「すぐにでもドラマに出ることができる」という意味で言ったと言い訳しているが、彼女は「君には主役は無理だ」と言われたと受け取ったらしい。こうして山口百恵と阿久が対立したことにより、後に多くの傑作が生まれるのだから、この思惑のいき違いは日本文化にとっては幸運だった。1976年以降、山口百恵阿木耀子・宇崎竜童とチームを組み、阿久が詞を書くだけでなくプロデューサー的役割を担っていた沢田研二ピンク・レディーと壮絶なバトルを展開することになる。 (P19〜20)

「あと半年しかない」ことが、キャンディーズの人気を急上昇させた。芸能界は、解散・引退が場合によってはビッグビジネスになることを認識した。(P46)

ともあれ、私生児として生まれ、けっして豊かな家庭に育ったわけではない少女は、わずか十九歳にして、国家と対等に提携するようになり(=国鉄のキャンペーンソングを歌ったことを指す)、国家の放送局(=NHK)とも対等にわたりあったのである。鉄道と電波を制圧するのが、近代における革命の条件だとすれば、山口百恵は日本史上、ただひとり、真に成功した革命家だった。(P52)

紅白歌合戦〉では、山口百恵は《しなやかに歌って》を歌った。それが最後の〈紅白〉になるとは、視聴者は誰も知らなかった。

 山口百恵は、結婚・引退を密かに決断していた。
 松田聖子は、歌手デビューに向けて着実に歩み出していた。
 中森明菜は、ただの中学生だった。
 こうして、1970年代は終わった。(P71)

テレビのコマーシャルで《裸足の季節》を聴いたある人物は、「この人の詞は、僕が書くべきだ」と直感した。「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がして」と後に語っている。その直感はあまりにも正しかった。この人物こそが松本隆である。(P81)

(〈スター誕生〉のステージ上で中森明菜は、)「童謡を歌えと先生はおっしゃいますけど、〈スタ誕〉で童謡は受けつけてくれないんじゃないですか」と、番組制度の根幹に触れたのだ。彼女自身、これは「抗議」だったと認めている。前代未聞の出来事だった。審査員に抗議する中学生。はたして、審査員はどう応じるのか。(P112)

各レコード会社間では暗黙の了解として、発売時期もずらしており、トップアイドルたちは公平に一位を獲得できた。だが、《ルビーの指輪》のように、思いもよらぬところから大ヒットが生まれると、その調和が崩れるのである。(P135)

1981年に発売された四枚のシングルのうち、松田聖子自身が最初から気に入っていたものは《夏の扉》だけで、他の三曲についてはどれも最初は拒否反応を示したのである。ある意味では彼女は正直だった。財津和夫松本隆、あるいは大滝詠一という、音楽業界でのビッグネームに対して尊敬の念よりも、自分の感覚を優先させたのである。(P145)

宇崎竜童も同じように批判された(=アイドルに曲を提供したことを指す)。これに対して宇崎は『俺たちゃとことん』でこう語る。
「『ロックのサウンドを借りた山口百恵の歌』を作ってきたとは、けして思っていない」「山口百恵にロックを歌わせてきた」。「俺は、歌謡曲に引きずり込まれたんじゃなくて」、「歌謡曲をロックに引きずり込んだ」。(P155)

松田聖子山口百恵の幻影と闘わなければならなかった。山口百恵は神話となり、美化されていた。相手がすでにいないわけだから、直接対決して勝負をつけることができない。それだけに、やっかいな敵だった。(P163)

ここまで本音を引き出されたのは、この本(=『青色のタペストリー』)の構成者、すなわち実際の原稿の執筆者の手腕であろう。松田聖子に質問しこれまでの優等生的回答ではないものを引き出し、それを原稿にした人物の名前は、本にこう記されている。「構成 林真理子」。(P166)

デビュー後も、衣装や髪型について、中森明菜は全て自分で決めていった。彼女はセルフ・プロデュース力に長けていた。歌の才能も含めて、中森明菜は天才だった。そして、天才が周囲と軋轢を起こすのは避けられなかった。(P185)

松田聖子は〈紅白〉では《野ばらのエチュード》を歌って、この年(1982年)最後の仕事を終えた。
 この年の終わりの時点では、リリースされたのが年初だったことも理由だろうが、《赤いスイートピー》は「今年を代表する曲」どころか、「今年の松田聖子を代表する曲」ですらなかったのだ。(P207)

松任谷由美をはじめとする他の作曲陣も闘志を燃やしてきた。音楽的にますます高度に、難しくなる。松田聖子はここまで歌えるのか、こんな実験的なものでもヒットしてしまうのか――それは驚きだった。松田聖子のもとに多くのミュージシャンが結集してきた。音楽の中で最も遅れていると思われていた歌謡曲の世界に、松田聖子という解放区を生まれていたのだ。(P220〜221)

松田聖子という稀有なシンガーを媒介として、日本音楽界の最先端にして頂点にある才能が、大衆と結びつこうとしていた。
 前衛と大衆が結びついたとき、革命は起きる。(P224)

一子(聖子の母)が「英語の歌が流れるのよね」とさらに言うので、松田聖子はまた教えることになった。
「ゴメンネ、あれ私が歌ってるの」
 そのときの母親の驚いた顔について松田聖子は「きっと私が結婚します、と言っても、あんなには驚かなかったんじゃないかしら」と言っている。
 その歌こそが、《SWEET MEMORIES》だった。(P234〜235)

瞳はダイアモンド》の最後の一行は「涙はダイアモンド」だった。井上陽水は《飾りじゃないのよ涙は》で、中森明菜に「ダイヤと違うの涙は」と歌わせた。一年の時間差があるので、気づいた人は少なかったかもしれないが、松田聖子のファンは、「あ、やったな」と思った。(P273)

松田聖子田原俊彦に金賞をあげたくないという理由だけで創設された、「二年目の新人」のためのゴールデン・アイドル賞は、(レコード大賞から)なくなった。(P276)

 この日の〈ザ・ベストテン〉では、もうひとつの「最後」が待っていた。久米宏が来週をもって番組を降りると伝えたのだ。
 中森明菜は泣いた。黒柳徹子が心配して声をかけた。中森明菜は「久米さんも聖子さんもいなくなるなんて」と言うのが精一杯だった。松田聖子も神妙な顔をしていたが、泣くことはなかった。(P289)

この時期の松田聖子作品のほとんどを作詞した松本隆は、マンネリに陥らないように、一曲ごとに異なる女性像を描いた。ひとりにまかせたがゆえに、松田聖子作品は多様性を得た。中森明菜はその逆に、ほとんどの作詞家が彼女のためにせいぜい数曲しか書かなかった。彼らは一曲入魂の姿勢で「中森明菜らしい女性」を描いた。それが結果的に、歌の舞台や人物設定は異なっても、不幸と孤独を繰り返すことになった。中森明菜はあんなに笑うと可愛い女の子だったのに、どうして歌においては笑顔を封印されてしまったのだろうか。作り手と本人に、松田聖子のアンチテーゼであろうという過剰なまでの意識があったのだろうか。(P295)