山田正紀「辛うござる」

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「辛うござる」販売ページへ(55ページ、税込み116円)
望月正十郎の気がふれたという噂がたったのは、春ごろからであった。娘を嫁にやっている後藤平内はその噂をきいて、気が気ではない。正十郎は家柄が不明な男だが、道場をやっている小寺兵庫介のもとで育てられ、師範代と試合をしてもしばしば勝つくらいの腕前を持つようになっていた。根も真面目で、平内は自分から娘を押し付けるように正十郎の下にやったのだ。彼を信じていたのだ、彼が朝鮮から戻ってくるまでは……。
豊臣秀吉朝鮮出兵、いわゆる文禄の役に参加した正十郎は休戦により里帰りした。だがその頃から、彼の気がふれたという噂が立ち始めた。もののけにとり憑かれたように走っていたとか、大根ばかり買い込んでいるとか、道場にも顔を出さなくなったとか。そしてついに嫁のみやこが実家である平内の元に帰ってきてしまったのだ。怒り心頭に達した平内は事の仔細を確かめるため、正十郎を訪ねた。その正十郎が「みやこを実家に逃げかえらせたもの」として平内の前に出したのは、大根の漬け物だった。しかしただの漬け物ではない、真っ赤に染まった漬け物だ。これはなんだ? 「かの地ではこれを沈菜(チムチエ)、あるいはキムチと呼んでいます」と正十郎は言った――。


朝鮮から日本に初めてキムチを持ち込んだ男を主人公とした時代小説。ミステリ的展開も伝奇の要素もSFも全く登場しない。正十郎は、朝鮮から大根の漬け物のノウハウを輸入し、まだ朝鮮でも珍しかった唐辛子を加えた、現在のキムチの原型を考案した人物として登場している。キムチの美味しさに夢中になったものの、日本ではほとんど理解されず奇人扱いされる正十郎の姿が可笑しくもあり、同時に哀しくもある。正十郎のキムチへのこだわりが、クライマックスでの真剣勝負を生むのだ。ラストの締め方も決まっている。
作品の内容とは無関係だが、タイトルページのバックのキムチ写真のアップがすごい。これを見てるだけで「辛うござる」と言いたくなってしまう。