船戸与一『猛き箱舟』

猛き箱舟〈上〉 (集英社文庫)

猛き箱舟〈上〉 (集英社文庫)

猛き箱舟 下 (集英社文庫)

猛き箱舟 下 (集英社文庫)

(再読)
香坂正次は野望に燃えていた。日本の経済成長を陰で支えている裏世界の大物、灰色熊(グリズリー)こと隠岐浩蔵のような人物になるのが夢だった。隠岐浩蔵と一緒に仕事がしたい、その思いだけで香坂は彼に近づいた。ナイトクラブ《アルバトロス》でついに隠岐浩蔵に出会ったが、初対面はほとんど無視に近い状態だった。しかしそれでもいい、あの灰色熊に自分を印象づけることは出来たのだ。香坂正次は隠岐浩蔵に近づくため、筋ジストロフィー症の息子・浩介にまで接近、気に入ってもらうことにも成功した。そして、ついに隠岐浩蔵と仕事をすることになった。サハラ砂漠マグレブ地方での仕事に同行させてもらえることになったのだ! しかし香坂は、やがて自分が隠岐浩蔵に裏切られ、捨てられることになろうとは、その時は全く思ってもみなかった……。


今年のテーマ「名作再評価」の第一弾として選んだのは、80年代冒険小説の頂点ともいえる『猛き箱舟』だ。(再読)と書いたが、実は三読である。私は本書をハードカバー本で持っている(残念ながら初版ではなく、同年7月の第4版である)が、帯の推薦文からして素晴らしいので、ここで引用しておきたい。上巻は内藤陳のコメント。

ここに我らが船戸がいる。
週プレ連載終了時より数えて丸一年、加筆を重ねて二千枚、枚数の話ではないぞ、作家の魂の話なのだよ。読んで読んで読み疲れてさしもの陳がチート休もうかと思うのは本の厚さではない。船戸の熱気にあてられて、一息入れないことには身体が持たないのだ。
これは“船戸ハードボイルド”が産み出した、世界にも稀なる〈暴力者の教養小説〉なのであるぞ!

続いて下巻は北上次郎だ。

アフリカ活劇行がすごい。
これだけでも一冊の大長編になるほどのボリュームだ。長さではない。ディテールの積み重ねが圧倒的なのだ。頭とケツの静寂を、この激しいアクションをはさむことによって、実に効果的に浮き彫りにしている。
そして復讐を誓う壮絶なシーン。能天気な青年は、アフリカで人の地獄を見るのだ。生還した彼は、もはや昔の彼ではない。すなわち、これは棲絶な復讐物語だが、船戸与一には珍しいビルドゥングス・ロマンなのである。

さて、内容はどうか。もう文句なしだ。今回十数年ぶりに読み返したが、一つ一つの細かいシーンまで克明に憶えている事に自分でも驚いた。
本編に入る前の第一部「ある隻腕の死者のおぼろな肖像」で、この物語の流れがほぼ提示されている。隻腕の男は政府要人を5人も殺したテロリストだが、他に「特殊な民間人」を殺しているという。その男を特殊班が追いつめ、殺すまでの場面だ。一年半前と現在の二枚の写真があるが、二枚の顔付きの変貌ぶりに驚く特殊班たち。男はわずか一年半でまさに「歩く亡霊」のような顔になっている。そして射殺後、確認のために近づいてまだ驚く。顔が一年半前の、穏やかなものに変わったのだ。この男=香坂正次の身に、一年半の間に一体何があったのか、それが語られているのが第二部と第三部だ。裏世界の大物になりたかったただのチンピラが、アフリカで挫折と裏切りを体験し、復讐のために戻ってくる。息詰まる怒涛の展開には、ページを繰る手がもどかしくなるほどだ。
この物語が素晴らしいのは、「人間が描けている」からだ。香坂正次、隠岐浩蔵のみならず、一瞬しか登場しない端役にいたるまで、それぞれの人生の細部が見て取れるのだ。具体例を挙げよう。第二部の「私記1」で登場する、香坂の元恋人・下村夏江は、同棲している男からの電話で、伝聞の形でしか描かれない。だが、そのわずかのシーンに、夏江の香坂への想いがリアルに語られる。彼女は香坂に再び逢いたいがため、食を断ち、そのまま餓死してしまうのだ! それから「私記5」で登場する、フランス語で「死」を意味する「モール」とだけ喋る狂える老婆。彼女をそんな状態にさせた人生までが、ほんの僅かのシーンで全て伝わってしまうのだ。そして最後の最後、隠岐浩蔵と香坂正次の一騎打ちの場面で、突如読者=日本人の胸に突き刺さる文章がある。日本がここまで経済成長を遂げた裏には、隠岐浩蔵のような人物がいた(らしい)のだということを、我々に自覚させようとせんばかりに。これは日本の「裏現代史」を象徴する冒険小説の大傑作であり、作家・船戸与一の到達点の一つなのだ。