川西政明『鞍馬天狗』

鞍馬天狗 (岩波新書)

鞍馬天狗 (岩波新書)

鞍馬天狗といえばアラカンこと嵐寛寿郎の映画シリーズだが(といっても、本当に馴染みなのは私よりも遥かに上の世代だろうが)、ここでは原作の大沸次郎の「鞍馬天狗」シリーズを読み解くことを主題としている。何せ前半は、全作品を紹介しながら、鞍馬天狗が「斬った人の数」を克明に数え上げているのだ。
鞍馬天狗って結局何者よ? という素朴な疑問から読み始めた。幕末の倒幕派の浪士で、新撰組が敵だったらしい。ただ、大沸次郎による「鞍馬天狗」シリーズは大正時代にスタートしており、戦争の時代を経て戦後にまで書き続けられており、その間に作者の意識・世の中の動きが微妙に小説に影を落としているらしい。最後には「人を殺してはいけない」という境地にまで達する。181人も斬ったというのに!
後半は、鞍馬天狗がいた(とされる)時代背景を追いながら、鞍馬天狗の立ち位置を明らかにしている。
印象的な文章はこれだ。188ページ。

薩摩を中心に長州と連合し幕府をたおし、新政府をつくる。これが大久保一蔵ら薩摩の考えである。薩摩と協力して幕府をたおし、薩摩と長州を中心とする新政府をつくる。これが桂小五郎ら長州の考えである。これにたいし鞍馬天狗は薩摩も長州もない、徳川もない、ただ日本国だけがあると考える。この鞍馬天狗の考えには、だれが中心になって新政府をつくるかの視点がない。鞍馬天狗は乱世を生きる革命家であって、革命が成就するとともに革命家でなくなることを運命づけられている。革命家が革命家たるためには、革命が成就すると同時に革命家をやめ、政治の舞台から引下らなければならない。

もうひとつ、202ページより。大沸次郎は映画版「鞍馬天狗」を中止させたらしいのだが、その理由の考察。

ここて大切なのは、映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎていると大沸次郎が考えたことであろう。大沸次郎は鞍馬天狗が剣を構え、敵と対峙したとき、なぜ斬るかを明確にさせてきた。斬る目的や理由はいつもはっきりしていた。斬るという行為のなかに、大沸次郎の正義感とか倫理観とか道徳観とかがこもっていた。映画の鞍馬天狗が人を斬る行為のなかには、この大沸次郎の正義感とか倫理観とか道徳観の範疇を逸脱するものがあったのではなかろうか。その逸脱が大沸次郎には耐えられなかったに違いないと推測できる。