リチャード・ドーキンス『虹の解体』

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

新刊『神は妄想である』が面白そうなので購入して読書待ちだが、その前に読んでみた。
ニュートンが「虹」という詩的・神秘的現象を科学的に「解体」してしまったために「詩性」がなくなった、と嘆く詩人キーツに対し、虹の解体によって得た新しい世界観が新たなセンス・オブ・ワンダーを生み、それがさらなる「詩性」の源になっている、という主張の科学啓蒙書。他にも、偶然の一致を根拠にした似非科学を痛烈に批判したり、自著『利己的な遺伝子』を批判する科学者スティーヴン・ジェイ・グールドへの反論(私怨)に多くのページを費やしたりと、読み終える頃には雑多な印象も残ってしまうが、科学の素晴らしさだけは揺るぎない真実である。
第一章の最初の文章にまず感動。

私たちはやがていつか死ぬ。私たちは運がいいのだ。なぜなら、大半の生命は、生まれてくることもなく、したがって死ぬこともできなかったからである。この世に生を受ける可能性を持ちつつも実際、生まれ得なかった生命の数は、アラビア海の浜の砂つぶの数よりも多いはずである。生まれくることのなかった命の中には、キーツよりも偉大な詩人、ニュートンよりも優れた科学者がいたであろうことは確実だ。私たちのDNAが作り出すことのできる生命の数は、実際の人間の数よりも遥かに多いからである。

なんか、宗教ぽい。神を否定している人の文章なのに。
他にも、ハッとされられる文章が次々に出てくる。

両腕をいっぱいに広げる。左手の指先が生命の誕生、右手の指先が現在とする。その間が進化の歴史である。左手から中点を越えて右肩のあたりまで、バクテリア以上の生命形態は存在していなかった。多細胞の無脊椎動物が出現したのは右ひじのあたり、恐竜が現れたのは右手の手のひらあたり、絶滅したのが指のつけねあたりだ。人類の祖先、ホモ・エレクトスが出現し、引き続いて現在に至るホモ・サピエンスの時代はほんの爪の先。爪切りでパチンと切りとれる範囲でしかない。現在、記録に残っている歴史、すなわちシュメール人の時代、バビロン捕囚、ユダヤ史、ファラオたちの諸王朝、古代ローマの戦士たち、キリスト教の成立、メディアとペルシャの律法、あるいはトロイ伝説、ヘレネアキレウスアガメムノンの死といったギリシャ神話、ナポレオンやヒトラービートルズ、あるいはクリントン……これらはすべて爪の先をやすりでひとこすりしただけで消し飛んでしまうのである。
(30ページ)

カール・セーガンの「COSMOS」に登場した、「宇宙の歴史を一年に例えたカレンダー」に似た話だ。

誕生星がわれわれの性格や将来やセックスの相性をお告げくださるわけではない。星々はもっと大きなことのために忙しいのである。ちっぽけな人間の心配事などに関わっていられようか。
(164ページ)


性格をそれぞれ相容れないカテゴリーに分類するようなやり方など及びもつかないもので、言うまでもないが、新聞の占星術で使われるようなばかげた12のごみ溜めとは、天と地ほどの差があるのだ。
(166ページ)

これは占星術批判の部分。
以下はコメントなしだが、特に最後のは感動的だ。

われわれにとってありふれたもの、たとえばラジオなども、われわれの祖先にとってみれば、幽霊の訪れと同じくらいおかしなものに見えたことだろう。電車内での携帯電話は、われわれにとってみればただの迷惑だ。だが、まだ電車がもの珍しかった19世紀に生きていたわれわれの祖先から見れば、携帯電話はまぎれもない魔法である。優れたSF作家であり、また科学技術の無限の可能性を説いているアーサー・C・クラークはいみじくもこう言っている。「十分に進歩したテクノロジーは、魔法と見分けがつかない」。
(179ページ)


世界中のどんな場所においても、儀式というものは、かすかな、わずか一点における類似によってあるものが別の何かを象徴しうるという妄念を基にできている。悲しいことに、粉末状にしたサイの角は、ただその角の形が勃起したペニスに似ているというだけの理由で、媚薬になると考えられている。
(242ページ)


DNAとは、自分たちの祖先たちが行きぬいてきた世界についての暗号化された記述である。なんと心ときめく考え方ではあるまいか? われわれはアフリカ鮮新世をデジタル記録した図書館であり、さらにはデボン紀の海のデジタ記録でさえある。古き時代からの知恵を詰め込んだ、歩く宝物庫なのだ。そして一生涯をかけてこの太古の図書館を読むことに費やし、しかしなおそのすべてを知ることなく死ぬのである。
(334ページ)